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「何してんだトオル」
「あ、不知くん」
トレーニングルームの扉を開けた瞬間目に飛び込んできた光景に、不知は片眉を上げて六月に声を掛けた。シャトーの中でも一際大きな空間を取って設計された部屋の中央で、キャスター付きの事務椅子に腰掛けた六月が悪ふざけをする子供のように両足を浮かせている。けれど六月は決してふざけてなどいない。大きく傾く背凭れに身体を預けながらぐらぐらと揺れる椅子の上で何の支えもなく一定の姿勢を保つにはそれなりの体幹が必要だ。傍目にも六月の全身の筋肉が緊張しているのが見て取れる。神経を研ぎ澄ませた彼の手には鈍色に光るナイフが握られていて、不知はゆっくりと六月に近付きながらその刃先の行方を視線で追った。
「鈴屋さんと訓練してるとやっぱりクインケの扱いっていうより身体能力の違いを感じる事が多くて」
「あのヒトはバケモンみたいなもんだろ」
「あはは、まあね」
話している間も六月は絶えずナイフを指遊びでもするようにくるくると複雑に持ち替えて、時折その銀色を宙に放り投げている。それを危なげない手付きでキャッチする六月の指には痕こそ薄いが無数の線が走っている。Qsの再生能力に勝る程幾度も傷付き訓練に励んだその証を不知は三白眼を眇めて見つめた。
「……器用なモンだな」
「ありがとう、でもまだまだだよ」
はにかむ六月につられて不知もへらりと笑う。六月の掌で踊るイフラフトが右手の中指で弾かれ、回転しながらまっすぐ真上に飛んでいく。ほんの二、三秒、空を舞った切っ先を伸ばされた六月の手が掴んだ。腕を伸ばした為に重心が揺らいで、ぎぎ、と音を立てる椅子が倒れそうなほど大きく傾く。手を伸ばそうか、不知が一瞬迷っている内に六月は膝を曲げてすぐに体勢を立て直した。ゆっくりと時計回りに回転する座面の上で傾いだ身体を背凭れに沈ませながら六月は上を向く。
「俺も俺なりに、いろいろやってみてるんだ」
「おォ」
「不安定な体勢でもクインケがきちんと扱えるようになれば、もっと作戦の幅が広がるかなって」
ナイフ型のクインケを刺突用の剣ではなく飛び道具として扱う、その方法を手練れである什造から教わったことは六月に新たな可能性の扉を開かせたらしい。
六月はもうナイフの刀身に触れる事を躊躇わない。クインケの特徴的な柄を握り締めて懸命に切っ先を振り翳していた彼の姿ばかりを覚えている不知は密やかに、けれど確実に変わっていく六月の変化を間近で見ながら微かな畏怖を感じていた。
指を握るというのは、自分を守る方法だ。素手で殴り合う時でも拳を握れば自分の指を痛めずに済む。反対に指を開けば爪という武器を得る事が出来ると同時に脆い関節を晒すという事で、当然怪我もしやすくなる。諸刃の剣を受け入れて、自分より他人を守る事を選んだ六月の選択が正しいのかどうかは他人である不知が判断出来るものではない。
不知の知っている六月透は穏やかで内気で真面目で、どこか守ってやりたくなるような雰囲気があった。彼は決して弱いだけの人間ではなかったけれど不知の〝兄〟の部分を刺激するような庇護欲を掻き立てる何かも持ち合わせていて、不知はそれを疎んではいなかった。
あの日、オークション掃討作戦を経て六月は変わった。以前はおずおずとしか自分の意思を主張できなかった内気は鳴りを潜め、仲間を窘める為の強い言葉が出るようになった。六月の口調こそ穏やかなまま言外に匂わされる凄味に瓜江や才子は逆らえずにいるし、琲世もそれを微笑ましく見守っているようだ。
班をまとめようと奮闘する不知に一歩下がって付いていくのではなく、隣に立って支えるような凛々しさに不知も助けられている。赫子を自分の意思で使えるようになった事で彼の中にひとつ筋の通った自信を持てたのだろう。振る舞いの一つ一つから確かな自尊心と前向きな姿勢を感じる。
そんな六月に、焦燥を覚える。
赫子もクインケの扱いもまだ未熟な部分の多い自分よりも、六月の方がリーダーとしてふさわしいのではないか。
次期昇進の折には六月を一等捜査官に、という噂もある。班長である自分より階級の高い仲間ばかりになるという事態は不知を少なからず焦らせた。自分は自分なりに出来る事をしているつもりだけれど、それでも至らない部分があるのは確かだ。
(俺が守ってやらなきゃいけなかったトオルはもういない)
どこか、下を見て安心していた自分がいたのかもしれない。情けなく格好の悪い自分と向き合う度不知は自己嫌悪の津波に呑まれそうになる。
「不知くんは」
物思いに耽っている最中に急に話し掛けられてはっとした不知は内心の動揺を取り繕うようにぴっと背筋を伸ばした。そんな不知の様子には気付かず六月は手元のナイフを見つめたまま言葉を続ける。
「ナッツクラッカーを使うんでしょ」
「お、おお。知行サンに相談してるところだ」
「どんな感じになるのかな。楽しみだね」
しゅるり、六月の指の下でアブクソルが踊る。二本のナイフを滑らかに遊ばせながら六月はどこか遠い目をしてぽつりと呟いた。
「先生が、さ」
「?」
「ちょっと変わったな、って思うんだ」
「サッサンが?」
「うん………なんて言うのかな、時々……考え込んでるっていうか」
「あー…………」
「この間の作戦でSSレートの喰種とやりあったんでしょ」
オークション掃討作戦で佐々木琲世は正体不明のアオギリの樹の喰種と単騎戦になり、なかなかの深手を負った。館内放送で響き渡る琲世の潰れるような悲鳴を今でも鮮明に思い出せる。途中で戦線を離脱した六月とは別行動だったから、情報の共有はあくまで書類上のものでしかない。
「あんなにひどい怪我をして……」
再生能力が人間とは比べ物にならない半喰種だからといって痛覚が無い訳ではない。傷付き、再生し、また傷付く。その痛みは人間の側に立つ自分たちには推し量ることの出来ないものだろう。
六月は痛ましげな顔をして俯いた。押し殺した感情を隠して手の中のナイフをぐっと握り、それを少し乱暴に回転させる。けれど六月の意識の乱れを表すようにクインケは制御を外れカラン、と音を立てて床に転がった。
「あっ、ごめん」
不知は謝る六月に手を上げて気にするな、と言いながらアブクソルを拾い上げる。小振りながらもずしりと手に掛かるクインケ鋼の重みは具現化された覚悟の質量だ。これを六月のあの細い腕で投げ振るい戦おうというのだ。目の前で俯く六月の肩は鍛えているとは言っても女の様に華奢で、出来る事なら苛烈な戦いになど向かわせたくはない。でも彼の喰種捜査官としての誇りを、意思を軽んじたくもない。
二律背反に揺れる不知の胸中など知る由もない六月は僅かに寂しさを隠した声色で穏やかに語り掛ける。
「俺たちはほら、同じ家で暮らす家族みたいなものでしょ」
微笑む六月に不知は微かな胸の痛みを覚えた。彼自身の血縁を全て亡くした六月が自分たちを家族だと言ってくれることに嬉しさと切なさが過る。
「だから、今度は俺がさ」
言葉の途中で六月が不知に向かってくいくいと指先でジェスチャーをして、手の中のクインケを投げろ、と強請った。自分の手に握られたナイフと六月とを交互に見遣り、本当に大丈夫かと不知は戸惑う。いいから、と六月が再度指先を動かすので、不知は怪我はするなよと祈りながら渋々アブクソルを放り投げた。放物線を描きながら六月の方へ飛んでいくナイフの剥き出しの刃先を六月の指先が掴む。投げられた勢いを殺すように腕をびっと横に伸ばすと逆さ向きのナイフがしっかりと人差指と中指の間に挟まれていた。六月がしなやかに手首を反すとアブクソルは捻りを加えた動きでくるくると回転し、数瞬の内にその柄は掌の中でベストポジションに収まっている。不知がおお、と感嘆のため息を漏らすと六月は自慢げに笑った。
「俺が守るよ、先生も、みんなも」
もう守られるだけじゃない自分になりたい。
六月の決意は既に形を成し始めていて、それに追い越される恐怖を抱いていた己が馬鹿馬鹿しくなる。
不知はクッと自嘲の笑みを零して髪を掻き上げた。俺なんかのちっぽけなプライドなんか捨ててしまえ。そうして俺も、強くなりたい。
「何だよ、急にカッコよくなっちまって」
「え、そうかなあ」
へへ、とはにかむ六月の、最高にカッコいい家族の隣に立てる誇らしい自分でいられるように。
「ま、とりあえず飯にしよーぜ。今日の夕飯シチューだってよ」
「ほんと?嬉しいな、俺先生のシチュー好きなんだよね」
屈託のない笑顔を見せる六月の背を叩いて不知は階下へ降りて行った。六月も椅子から立ち上がり、座面にナイフを畳んで置くとすぐに不知を追う。残された部屋の真ん中で、折り畳まれ収納された二つのナイフの鞘の隙間から誇りの刃先がきらりと光った。

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